2日継続できていることを誇らしく思う
シアン・ブルーです。
固定概念や先入観というものは国語や道徳で習うより恐ろしいものです。
論理的、理論的に考えているつもりでも我々は捨てきれずにいる。
いや、私が・・・
具体例を挙げるわけにはいかないが
自身の持っている常識という狭い了見で世間を推し量ることが
既に傲慢であり、利己的だ。
私は数十年昔に異様に背の低い女性に出会った。
その時、私はギョっとしてしまい少しの間まるで怪物を見るような目で見てしまった。
2秒後には、そのことを後悔した。
やはり、固定概念や先入観、当たり前や普通というものは脳を鈍らせる。
きっと今でも同じようなヒトに出会ったら、瞬間、硬直してしまうだろう。
前時代的で愚かな人間なのだろうか。
おや、その発言も「ソレ」ではないか・・・
チクタク。
さて、今回のテーマは「興味」
私の幼いころは、ひどく好奇心の無い子供だった。
食欲は無く、物欲も無く
注射器を刺されようが、転ぼうが泣くことは無く
感情の高ぶりも無い。
一体、何が今の強欲で生欲にあふれた私を形作ったのか
ほとほと疑問である。
一つ、心当たりとして
幼き頃、といえど上記より数年経った後だが
親友と言える友人ができた。
私はからっきしだったが、その子は人気者だった。
その理由の一つとして、あらゆることを受け入れてくれる度量にあったと思う。
当時、まだネット文化や創作活動に世間が理解を示そうとしなかった時代。
世間一般の「趣味」としての常識から外れた万物は
どうしても、常識人ワナビである子供からは嘲笑の対象であった。
「普通ではない、頭がおかしい、気持ち悪い。」
そのような、月並みに低俗な言葉は同じく常識人ワナビである私の胸に深く鋭く刺さった。
そんな中、親友である彼、ここでは「”日立君”」とでもしよう。
日立君はどんな趣味趣向、考え方にも身を乗り出して興味を持って話を聞いてくれた。
もちろん、私だけでは無い。 全員にだ。
変わり者、と冷ややかに色眼鏡で見られる我々にはまるで
しじまの海に立ち昇った暖かい太陽のようだった。
そんな日立君を中心に変わり者が集うグループが完成した。
オタサーの姫、よろしくオタサーの王子といった所である。
(なぜか顔まで整っていたしな・・・)
私は最初こそ、なんでも話せる友達ができたことに喜んでいたが。
そのうち、日立君のようにはなれぬものか、と思案するに至った。
そこで数週間の観察の果て、最初の理由に突き当たった。
私も同じように皆と仲良くなりたいと思い、真似事をするようになった。
その結果が今に至る。
実際、友達はたくさんできた。
が、副作用として好奇心旺盛になってしまった。
そして、中学生になると過度な好奇心は身を蝕み始める。
まあ、その、なんだ、
つまり、そういうことだ。
滑稽だな。 (´ω`)m9 |鏡|
チクタク。
さて、今日もここまでとしよう
「 ”しじま” とは ”静まり返っている” という意味だ。」
それでは、おやすみなさい。いい夢を。